1月12日「イエス、洗礼を受ける」

マタイによる福音書3章13-17節(新共同訳p.4 口語訳p.3)

1.「『わたしこそ、あなたから、洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』・・『今は、止めないでほしい。正しいことをすべてするのは、我々にふさわしいことです。』」 

 教会暦はイエスの降誕からイエスの受洗(公生涯)へ、そしてイエスの受難(十字架と復活)へとつなげます。御子の降誕は受難を目指しているからです。

 罪なきイエスがヨハネ(悔い改め)の洗礼を受けるのは、御自身のためではありません。イエスは死と滅びの暗黒の中に住む全人類の罪を背負われ、私たちを代表し水の洗礼を受けられました。救いの御業に与った者は、神の子と回復され永遠の命を約束された御国の市民となり、天の父から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられます。

  2.「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。・・『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」 

 洗礼を受ける者の幸いは、天の国と私がつながる喜びです。それは父なる神の声を直接に聞こえる恵みに与ることです。しかも父の神はいつもイエスを通して「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う(選んだ)者」と呼び掛けてくださいます。

 「君は愛されるために生まれてきた」の歌声は「君は愛されているから今生かされている」のです。キリストを信じる者の幸いを心に刻み、いつも唱えましょう。

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