マルコによる福音書12章1―12節 イザヤ書5章1―2節(新共同訳p.85,1067 口語訳p.71,947)
*ぶどう園はイスラエルの民
当時のぶどう園は、ぶどうの実そのものを出荷するのではなくて、ぶどう酒を作るための場所でした。「絞り場」というのは、ブドウを絞るための施設ですし、垣や見張りのやぐらは、盗賊や動物たちから ぶどう園を守るための建造物です。「ある人」といわれている このぶどう園の持ち主は、それらのものを全て整えて、すべての設備投資の済んだぶどう園を、農夫たちに貸します。
*イザヤ書5章「ぶどう畑の愛の歌」
イスラエルの民は、主なる神様の あふれるような恵みを受けて養われ、育てられてきました。ところが、その民が実らせたのは、神様が期待しておられた良いブドウではなく、悲しいかな、酸っぱいブドウだったのです。イスラエルの民は、神様の恵みを無にしており、神様の恵みに正しく応えなかった、と イザヤは歌います。
*農夫たちは民の指導者たち
今日のイエス様のたとえ話は、イザヤ書の「ブドウ畑の歌」を土台にしています。
新しくぶどう園を作った場合、実際に収穫がなされ、利益を あげることができるように なるには、何年かの年月が必要です。「収穫の時になったので」というのは、その期間が過ぎて、いよいよ、このぶどう園から収穫ができて、利益が見込まれるようになった時に、ということです。つまり、主人はこの農夫たちに、十分な時間を与えているのです。
彼らが きちんと仕事をしてさえいれば、収益があがり、その取り分を支払うことができる、そういう時になって、主人は僕を遣わします。ところが、農夫たちはその正当な取り分を支払おうとはしませんでした。この主人のもとから遣わされた多くの僕たちというのは、旧約の預言者たちのことを指しています。
最近では、洗礼者ヨハネを受け入れず、殺してしまいます。あなた方はヨハネの洗礼を神からのものとして受け入れず、彼を見殺しにした、それは、主人からの僕を侮辱し、殺した農夫と同じではないか。と、イエス様は祭司長たちに、その事実を突きつけておられます。
*愛する息子を遣わす
最後に「私の息子なら、敬ってくれるだろう」と言って、 主人は、自分の愛する息子を農夫たちのもとに送ります。しかし 農夫たちは、「さあ、殺してしまおう。」(7)と相談して、捕まえ殺し、ぶどう園の外に放り出してしまいます。主人の息子とは、言うまでもなく、主イエス・キリストのことです。彼らは、イエス様のたとえ話しが 自分たちのことだと、はっきりと悟り、ますますイエス様に対する憎しみを募らせ、敵意を深めていきます。
*ぶどう園は私たちの人生
このぶどう園は すべてを、主人がつくり、備えてくださったものでありました。私たちの人生も同じではないでしょうか。私たちの命も、環境も、神様が造り、預けてくださったものです。生涯の始めに、神様はわたしたちに体と心、能力や才能を与え、住む場所を整え、守ってくれる家族を準備してくださいました。「ぶどう園を作り、垣を巡らし、絞り場を掘り・・」という言葉通り、神様は私たちのために、すべてを準備してくださったのです。わたしたちはそれらを借りた農夫にすぎません。
*隅の親石
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる」(10)「家を建てる者」とは、ユダヤ社会のリーダーたちのことでしょう。「捨てられた石」とは、イエス様のことです。イエス様は、祭司長たちに拒否され、捨てられて十字架にかけられ、死なれます。しかし、三日後に復活され、イエス様の福音は世界中に広がって、神の救いが近づいてきます。また、「捨てられた石」とは、社会の片隅に追いやられた人々を指すと考えていいと思います。ここで、イエス様の念頭にあったのは、きっと、イエス様の声に耳を傾け、神に忠実に生きる異邦人たちや ユダヤ社会の片隅に追いやられた人々だったでしょう。たとえば、恥も外聞もなく、病気の部下のために 懸命に祈る百人隊長、また、娘の病気を治してもらいたい一心で「子犬もパンくずはいただきます」とすがったお母さん。神のみ旨に忠実に生きる 彼らこそが「神の国」を支える「隅の親石」です。
この慈しみ深い神様の語り掛けに耳を開き、応えていくことが私たちの信仰です。私たちの収穫は、独り占めにせず、神様にお返ししながら、それぞれの人生を歩んでいきましょう。