1月28日「キリスト者の土台は何か」

使徒言行録14章19―28節(新共同訳p.242口語訳p.205)

パウロたちは、行く先々で迫害にあいました。そんなパウロたちは、「自分たちの伝道によって、各町で生まれた教会も、当然自分たちと同じような迫害にあっているに違いない。」そう思ったのです。だからこそ、自分たちの伝道によって生まれた教会を訪ねて、励ましながら、ピシディア州のアンティオキア教会に帰ることを決意したのです。主イエスの福音が宣べ伝えられるところでは、それを信じて信仰に生きる人々が生まれると共に、それに反対して、敵対する人たちの迫害も起ってくるのです。

現代ではパウロのように、石を投げつけられて、死にそうになるなんてことはありません。でも、私たちが宣べ伝える福音を無視して、耳を貸さないという消極的な迫害はよく受けます。この世では、圧倒的多数の人たちが、福音とは無縁に、自分の思いを中心とする生活習慣の中で生きています。現代の社会の中で、信仰を持って生きるならば、有形無形の圧迫との戦いが必ずあります。そしてその戦いには、必ず苦しみがつきまといます。

信仰者として、この世で生きていくためには、苦しみがつきまとうのです。もし、苦しみを避けたいならば、主イエスを自分の心の王座には迎えずに、自分を迎えることです。つまり、教会を去れば良い。でもそういったことを私が言えば、信仰を、この世での利益を得るための手段としか考えていない人は、違和感を覚えると思います。でも、本当の信仰は、「たとえどんなことが自分の身に起こってこようとも、自分は福音によってのみしか、本当に生きることが出来ない。福音なしには、自分の人生は真実の支えを失う。生きる意味を失う。」そう心から思えることです。そう思える人だけが、パウロたちのように、福音を妨げる力や、福音から自分を引き離そうとする力と戦っていく意志が芽生えるようになるのです。

パウロの時代もそうだったように、信仰は、戦って守るべきものです。主イエスが、友である私たちのために、有形無形の圧迫、神に背反する罪と戦って、それに勝利して、福音が齎されたのです。その福音に生かされている私たちは、主の友として、主に在る人として、どのように友情や従属を、主イエスに示しているでしょうか。自分の幸せばかり願っている人は、主イエスの友でも、主イエスの僕でもありません。パウロたちは、主イエスの友として、僕として、自分たちがどんなに迫害を受けても、これからどんなに大きな迫害の中に突入していくことになろうとも、主イエスのために、自分たちの危険を顧みず、兄弟姉妹の信仰を力づけるために、今まで福音を宣べ伝えてきたそれぞれの町、そこで生まれた教会に、立ち寄るという決断をしたのです。

神の私たちに対する心は、主イエスの十字架・復活・昇天によって、明らかです。その神の御心を受け入れてこそ、神の私たちに対する無条件の恵みの中に、留まり続けることになるのです。

主イエスの救いという土台に、自分がちゃんと支えられているとすれば、どのような困難や苦しみも、「主イエスの救いの恵みを、更に深く知らされるために、通らなければならなかった道である。」そう受け止められるようになるのです。

そのことを覚えて、今週一週、皆さんと共に歩んでいければと思っています。

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