使徒言行録14章1節―18節(新共同訳p.241 口語訳p.205)
イコニオンでの伝道が、14章1-7節に記されています。そこでもパウロたちは、最初にユダヤ人の会堂で福音を伝道したのです。その結果、町の人たちは分裂しました。ある人はユダヤ人側に、ある人は使徒たち側についたのです。そのことが4節に記されています。主イエスの福音が、力強くストレートに語られた時、それを信じて受け入れる人と、反対する人。その二つに、自然に真っ二つに分かれるのです。そこに中立は存在しません。神の御言葉は、福音を受け入れるか、拒否するか、そのどちらかを私たちに迫るのです。それはそうと、リストラでの伝道で、一つの癒しの御業がなされました。生まれつき足が悪い男性が、パウロによって癒されたのです。でも、癒しの業を見たリストラの人たちは、パウロの語った福音ではなくて、パウロの力に目を奪われたのです。その結果、町の外にあったゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を運んできて、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとしたのです。その背後に潜んでいる人間の思いは、自分たちが利得を得たいという思いです。そのために、いけにえを捧げ、礼拝をしようとしたのです。そこに、彼らが神をどう見つめているか、それが示されています。パウロとバルナバにいけにえを捧げて、礼拝しようとしていたリストラの人たちの心の奥底には、等価交換の法則が働いていたのです。でもその時、パウロとバルナバは、14節に記されている通り、「服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行」ったのです。「服を裂く」という行為は、激しい抗議の意志表示です。つまり、「こんなことはやめて生ける神に立ち帰れ!」そう言ったということです。生けるまことの神は、旧約時代には、神に背反する罪人に対しても、神を信じる人に対しても、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を与えるという形で、見返りを求めない御自分の恵みを示していました。でも新約時代に入ってからは、新しい形で、御自身の見返りを求めない恵を示して下さったのです。その新しい形の恵みこそ、主イエスを通して与えられた恵です。それは、主イエスの十字架・復活・昇天の御業を信じることで与えられます。その神の恵みは、恵みに対する代価を求める人間の常識からは考えられないものです。神は人間の常識を超えて、等価交換を求める神でないが故に、私たちは神の前で、粗相をしないようにびくびくする必要はないのです。主イエスの十字架・復活・昇天の救いの恵みを信じて、その下で生き出した時、等価交換を隣人に求めることなく、無条件の愛、等価交換を求めない愛、それで隣人を愛していくことが出来るようになるのです。そのように私たちを造り変える恵み。それが神の恵みです。
