11月26日「喜んで生きる」

フィリピ信徒への手紙4章4―9節(新共同訳p.366 口語訳p.312) 

フィリピの信徒への手紙は、パウロが獄中から、離れたフィリピにある教会の人たちに宛てて書いた手紙です。今日の箇所には、エボディアとシンティケという、二人の女性の名前が出て来ています。この二人は、どうやら仲違いをしていたみたいです。パウロはその二人に向かって、「主において同じ思いを抱きなさい」そう勧めたのです。フィリピの教会にパウロからの手紙が届いた時、みんなが集まり、誰かが代表して、大きな声で朗読して読んだのです。エボディアとシンティケは、恥ずかしい思いをしたのです。でも彼女たちの争いは、教会全体に関わることだったのです。何故なら彼女たちは、教会で中心的に働いていた人たちだったからです。だからこそ、パウロは、見過ごすことは出来なかったのです。人間同士のいざこざは、わたしたちの日常生活で必ず起こってきます。その時、わたしたちの心は、自分を正当化したり、優位に立とうとする傲慢な思いをもったり、相手を見下す思いをもったりするのです。そういった思いが、私たちの心を支配するのです。でもそうなった時に、パウロは、「主にあって、思いを一つにしなさい。」そう諭したのです。どれだけ本人たちが、みんなの前で恥をかくことになってもです。パウロをそのように掻き立てているものは、一体何なのでしょうか。そのことを知る鍵は、2章6節以下に記されています。そこには、神の御子でありながらも、罪人であるわたしたちのために、御自分を無にして、人間になって下さって、十字架の死に至るまで、神に従順であった主イエスの姿が記されています。つまりパウロを掻き立てていたのは、父なる神への従順を尽くして、十字架・復活・昇天の救いの御業を成し遂げて下さった、主イエスの姿です。自分のみの平安を求めるのであれば、教会は三位一体の神の栄光を現しません。それでは、主イエスの一つの体として、教会が機能していないことになります。だからこそ、二人の女性のいがみ合い続いていたことは、教会全体に関わる大きな問題だったのです。私たちは罪人だからこそ、生活の中で、悲しむこと、苦しむこと、悩むこと、争うことがあります。でも、この世の何者も奪うことの出来ない、神という平和と、主が再びこの世に来られる希望。それが、キリスト者の人生の根底には、常にあるのです。日々、神に守られて、神との関係の中に、神によって生かされている。そういう喜びがあってこそ、神の軛を負って、自分を裏切った人の罪を赦し、慰め、励まし、自分を裏切った人が、自分と、神との豊かな三位一体の関係の中に生きていけるように、支えていける人となるのです。    

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