使徒言行録13章41節―52節(新共同訳p.240 口語訳p.204)
パウロが使徒として最初に語った説教を聞いた人たちは、さらに多くの人たちが、礼拝が終わってもパウロたちについていって、なおも話を聞きたがったのです。そういう人たちに、パウロは、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」のです。パウロの言う「神の恵み」は、主イエスの十字架・復活・昇天の救いを信じて、神への背反の罪が赦されて、神と向き合う人(relative change)になって、神の御言葉を聴いて生きていく人(real change)になることです。つまり、神との関係に生き、自分の内実が変化し、神の子らしくなっていくこと。それがパウロの言う神の恵みです。アンティオキアの会堂に集まっていたユダヤ人たちは、そういう神の恵みを、これまで聞いたことなかったのです。ユダヤ人たちは、「神が彼らに与えた掟や律法を守っていくならば、神の恵みにあずかり、救われる。」そう教えられていたのです。「たとえユダヤ人でなかったとしても、割礼を受けて、ユダヤ教に改宗して、律法を守っていきさえすれば、救いにあずかれる」そう教えられていたのです。でもパウロの教えは、主イエスの十字架・復活・昇天の救いの御業を信じるだけで義とされていって救われる。そういう教えだったのです。だからこそ、その教えに驚いて、ユダヤ人たちは、その話をさらに聴きたい。そう思ったのです。そこで疑問になることがあります。それは、45節のユダヤ人たちは、43節のユダヤ人たちとは別の人たちなのかということです。実はそうではありません。多くの聖書学者たちは、「最初は熱心にパウロの言葉を聞いていたけれども、突然手のひらを返したように、口汚くののしるようになった」そう解釈しています。でも何故そうなってしまったのでしょうか。それはユダヤ人たちが妬んだからです。その理由は、パウロの説教は、救いの外にいると思い、見下していた異邦人たちとの区別が取り払われる説教だったからです。彼らのイスラエルの民としての誇が、否定される説教だったからです。パウロの説教を数週間聴いているうちに、そのことがだんだん明らかになってきて、多くの異邦人たちがパウロの話を喜んで聴くようになり、逆にそこに、彼らのねたみが生まれてきたのです。つまり妬みの原因は、パウロの説教が、ユダヤ人たちの誇りを打ち砕くものだったからです。でもパウロは、自分の説教でそうなっていくことが分かっていたからこそ、43節で彼らに「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」のです。パウロの説教は、主イエスの救いを信じてその下に生きるのか、それとも自分の誇りを守ってその下で生きるのか、そういう二者択一を迫るものだったのです。主イエスの救いが語られる時、あくまでも自分の誇りや自負に固執する人たちと、与えられた神の恵みをそのまま受け入れて、その下で生きていこうとする人たちと、二つに分けられるのです。神の救いが語られた時、神に聴き従わないか、神に聴き従うか二つに一つであって、中間は存在しないのです。でも、私たちがどちらの道を歩むかということは、私たちの選択や、決断によることではないのです。その証拠に48節後半にこう記されています。「そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」つまり、私たちが選択したり、決断したりするよりも前に、先行的恩寵として、神がそのように導いて下さっていたということです。今この礼拝に集っている私たちは皆、そういう神の導きを受けたからこそ、此処に集うことが出来ているのです。それがなければ、私たちは信仰を得ることは出来ず、永遠の命を得ることは出来なかったのです。