2月11日「教会会議の本質」

使徒言行録15章1-21節(新共同訳p.242 口語訳p.206)

アンティオキア教会に、「ある人々がユダヤから下って来た」そう1節は述べています。つまり、エルサレムからアンティオキア教会にやって来た人々がいたのです。その人々が、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」そう語ったのです。つまり、異邦人キリスト者たちに対して、「主イエスを信じるだけではだめ。割礼を受けなければ救われない。」そう教えたのです。キリスト者が、皆ユダヤ人である間は、何の問題もなかったのです。でも、異邦人が主たるメンバーとなっていたアンティオキア教会では、それが大問題となっていたのです。それは、パウロたちが、割礼を受けさせず、異邦人のままで洗礼を受けさせて、教会に加えていたからです。「主イエスを信じるだけではだめ。割礼を受けなければ救われない。」この教えによって、アンティオキア教会の人たちは、「主イエスの福音を信じて、洗礼を受けることによってのみ救われる。そのように教えられて、それを信じたのは間違いだったのか」そう動揺したのです。それに対して、パウロやバルナバは、エルサレムから来た人たちに「私たちの救いは、主イエスの十字架・復活・昇天による救いの御業。それさえ信じるならば、キリスト者になれる。割礼を受けてユダヤ人にならなければキリスト者になれないなんてことはない。異邦人は異邦人のままで、主イエスの救いにあずかることができる。」そう反論したのです。その結果、激しい対立が生じたのです。それを収拾するために、エルサレムで会議が開かれることになったのです。その会議で出た結論が、その後の教会の在り方に決定的な影響を与えたのです。教会は時として、正しい信仰の定義は何か、救いの定義は何か、そのことについて対立が起こるのです。でも、そういった対立を通して、正しい信仰とは何か、それがはっきり示されていくようになるのです。つまり対立は、長い目で見れば、教会のさらなる成長に結びついていくのです。教会の歴史はそのことの繰り返しです。今日のエルサレム会議は、その最初のケースです。そういう意味で私たちは、教会内で起こる対立を恐れる必要はありません。確かにどうでも良いことで対立するのは愚かです。でも、どうしても必要な対立を避けて通ることは、教会のためにならないのです。それを避けて通るとことは、教会を導いておられる神を、ちゃんと信頼していないという現れです。教会は神のものです。だからこそ、主張すべきことはちゃんと主張をして、対立すべきことはちゃんと対立しなければならない時があるのです。初代教会は、会議を開くことで教会の中の対立を解決しました。でも、水面下の「根回し」をして、会議でそれを確認するという会議の仕方をしなかったのです。それは、会議の場で、教会の主なる神がみ心を示して、神が御心を行なって下さるという信仰があったからです。初代教会は、会議の場で働かれる神を信じて、その導きに委ねる信仰があったのです。エルサレム会議の結論は、異邦人がキリスト者として教会に加えられるためには、割礼を受ける必要はないということと、キリスト教は、ユダヤ教の歴史を受け継いではいても、ユダヤ教の一派ではないということでした。それによって、キリスト教は、ユダヤ人の民族宗教という枠を超えて、全ての人々に開かれた、世界宗教への道を歩み出したのです。

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