2月18日「神の確かさ」

使徒言行録15章22―35節(新共同訳p.243 口語訳p.207)

28節-29節を見ますと、こう記されています。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」つまり、割礼を受ける必要はない。但し、偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行いは避けなければならない。それが、エルサレム会議の決定だったのです。

でもパウロは、ガラテヤの信徒への手紙2章1節-10節では、「偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行いは避けなければならない。」そのことには一言も触れずに、エルサレム会議のことを語っています。

では、「偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行いは避けなければならない。」ということは、どうでもよい問題だったのでしょうか。

そうではありません。実はこのことはとても大切な問題だったのです。その理由は、神の民となっているのであれば、神の救いの恵みに対する感謝の気持ちから、罪から分かたれた人らしく歩んでいきたくなるはずだからです。そういう意味で、エルサレム会議で、異邦人キリスト者たちに対して、「偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行いは避けなければならない。」そう通達することを決めたのです。

パウロが信じて宣べ伝えていた福音は、使徒言行録15章11節で、ペトロが言っていた通り、「主イエスの救いという恵みによって救われる」そういう福音です。つまりパウロは、主イエスの救いの恵みに感謝して、歩んでいるならば、必ず罪から分かたれた人らしく歩んでいくようになるという確信があったのです。だからこそ、ガラテヤの信徒への手紙の中では、偶像に献げられたものを避けること、絞め殺した動物の血を避けること、絞め殺した動物の肉を避けること、みだらな行いを避けることを書き足さなかったのです。

しかし、主イエスの救いの恵みに感謝して、この世で生活をしていくということは、とても簡単なようでいて、とても難しいのです。

だからこそ、主イエスの十字架・復活・昇天の救いが私たちに与えられたのです。

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