マタイによる福音書13章10―17節(新共同訳p24. 口語訳p.20)
1.「『あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。・・彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』」
御国のことを知ろうとして真剣に探究する弟子たちは、天の国の秘密を悟ることが許されています。ところが、御国(救い)に無関心で興味を示さない者には、天の国の秘密を悟ることが許されません。
御言葉の種には百倍の実が宿っています。「天の国の秘密ミステリオン」を知ろうと真摯な弟子たちは30倍、60倍、100倍の実を結び、更に豊かに与えられます。一方、故意に福音を拒否し救いの門に入ろうとしない頑迷な態度は、今持っている祝福さえも失ってしまいます。
主の御言葉に聞き従い、主の鍛錬に従って困難や試練に耐え忍ぶ人は、豊かに実を結んで、言葉では言い表せない祝福に至るのです。
2.「『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。イザヤ6:9-10』」
イスラエルは選びの民であるのに、イエスと共にある救いと癒しを受け入れず、自分の目と耳を閉ざしてしまいました。私たちの目と耳は、純粋、純潔、純心に主イエスと向かい合って、御業に参与する者なのです。
3.「『あなたがたの目は見ているから幸いだ。・・多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、・・聞けなかったのである。』」
弟子たちは約束の救い主をイエスに見ています。これに勝る幸いはありません。旧約聖書の預言者や信仰深い人々は、御言葉や幻に啓示された救い主を待ち望みましたが、出会うことができませんでした。
十字架の福音によって救いは成就し、私たちは「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われました、ローマ10:10」。見ている目と聞いている耳は、イエスに倣うことで実を結びます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、ヘブライ12:1-2」。