2月2日「教会は祈りの家」

マタイによる福音書21章12―22節(新共同訳p.40 口語訳p.33)

1.「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。』」

エルサレム神殿に献げる山鳩のつがいは神殿のお金で購入します。ローマやギリシャの通貨は両替人によって一割が神殿に、一割が手数料に取られた上、その山鳩は大祭司が仕切る店で市場の十倍で売られました。祭司たちや商売人の豊かさは巡礼者からの搾取によるものでした。

イエスは神殿を商売の巣にしている彼らに怒り、台や腰掛を倒されました。なぜなら神殿は聖なる神と触れる祈りの家です。神の祝福を欲得の道具にしてはならないのです。

2.「イエスは言われた「聞こえる。あなたたちこそ『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 形式だけの神殿祭儀に命と祝福はありません。イエスは生ける言葉として病む者をいやされ、ホサナと歌う幼子のように素直で謙遜な心で御前に出るよう招かれます。

3.「『今から後いつまでも、お前には実がならないように』・・『この山に向かい、立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

イエスは都に戻る途中で、イチジクの木が葉を茂らせながら実がないのを見て、呪われます。篤信の信徒のように振舞いつつも、神の喜びとならず隣人を生かす御霊の実を結ばずにいるなら、神の恵みの搾取です。

大きな障害や問題の山があっても、信じて祈ることによって動かすことができるのです。イエスの諭しは弟子たちへの信仰の励ましであるとともに警告でもあります。もし聖霊に満ちあふれて祈るなら、御手を動かし山は移ると期待されるのです。

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