ヘブライ人4章14節―16節(新共同訳p.405口語訳p.347)
私たちは、信仰を持って歩むとすれば、大胆に、勇気を持って生きることができます。でも、大胆に生きるとは、一体どういう意味なのでしょうか。それは、本当に自分がなすべき事、自分の使命だと信じていることを、周囲の人たちの評価や、世間の常識に捕われずに、勇気をもって思い切って出来ることです。ところが私たちは、いろいろなものに捕われながら生きています。自分のプライドや、名誉欲がそれです。プライドは、大胆に生きることを邪魔します。特に、大胆に人と共に生きること、大胆に人を愛することを邪魔するのです。私たちが自分のプライドを守ろうとすれば、自分の殻に閉じこもり、人を寄せつけなくなって、人を愛することができなくなるのです。また名誉欲は、人に褒められたい、人よりも上に立って、人を支配したいという欲です。その欲が屈折して現れると、自分の謙遜を誇って、人を見下す思いに支配されるようになります。良く言われることは、教会はプライドよりも、名誉欲に支配されやすい。そう言われています。そんな名誉欲も、私たちが人と共に生きること、人を愛することを邪魔するのです。でも私たちは、信仰によってそれらを乗り越えて、大胆に、神の恵みの座に近づいていくことができるのです。皆さんはお気づきでしょうか。私たちは、毎週の礼拝で、神の恵みの座に近づいています。毎週の礼拝で、私たちと共に苦しんで下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスにお目にかかっているのです。主イエスは目に見えなくても確かに此処におられる(臨在ではなくて、現臨されている)のです。此処におられる主イエスの目には、私たちは高価で尊いのです。とするならば、プライドを傷つけられたっていいじゃないですか。人より上に立たなくてもいいじゃないですか。あの人は謙遜な人だと褒められなくてもいいじゃないですか。教会の礼拝に呼び集められて、聖書を通して語られる神のみ言葉を聞いて、信仰を持って生きている私たちは、プライドや、名誉欲や、その他いろんなことを乗り越えて、喜んで、自由に、大胆に、神と隣人を愛し、神と隣人に仕えて、生きていくことができるのです。
子どものおはなし
イエスさまのご降誕を最初に知らされたのは、王さまでもはなく、博士でもなく、ひつじかいでした。ひつじかいは喜びにあふれて、イエスさまに会いに行きました。


