コヘレトの言葉1章1節―11節(新共同訳p.1034 口語訳p.921)
コヘレトの言葉の本文は2節からはじまっています。そこを見ますと「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」そう記されています。コヘレトの言葉の本文が、何故この言葉からはじまっているのでしょうか?信仰は、すべてが空しいと言って生きるところからの解放なのではないのでしょうか?私たちは神に出会って、救いにあずかったときに、空しさから解放されるのではなかったのでしょうか?しかし、コヘレトはそう言わないのです。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」そう言っているのです。そして、「空しい」ではじまったコヘレトの本文は、「空しい」という言葉で本文を閉じています。つまり「空しい」という言葉で、サンドイッチのように本文を挟み込んでいるのです。「空しい」という言葉は、ヘブル語で、「ヘベル」といいます。そしてその言葉は、コヘレトの本文の中で、38回も用いられています。でも、コヘレトは、「私たちの人生は、生きていることに何の意味もない。すべては空しい。私たちの人生は虚無である。」そう言っているのでありません。確かに「ヘベル」という言葉には、「儚い、無意味」そういう意味があります。でも「ヘベル」という言葉は、「束の間、一瞬」そういう時間的な短さも意味しているのです。だからこそ、ある神学者は、「コヘレトの言葉の中の『ヘベル』という言葉は、『ほんの束の間』という意味で理解した方が良い。」そう述べています。もし、そのように理解すれば、コヘレトは、「人間の人生の空しさは、ほんの束の間のことである。」そう見つめていることになります。コヘレトは、生きることに絶望していないのです。それどころか、短命で儚く、空しい人間の人生を、どう生きるのかということを、真剣に見つめているのです。何故コヘレトは、そのようなことが出来たのでしょうか。それを紐解く鍵となる言葉をルターが述べています。ルターは、「人間を見る限りは、日の下に何も新しい事はない、だが新しい事がいつも、神の側から起こってくる。」そう言っています。つまりコヘレトが、コヘレトの手紙を書いた理由は、人間がどんなことをしても、何をしたとしても、人間を救うことはできないということを明らかにして、人間の救いは、ただ神から来るということを明らかにするためだったということです。