使徒言行録12章1節―25節(新共同訳p.236 口語訳p.201)
今日の箇所で最も注目しなければならないことは、6節~11節の天使によるペトロの解放という奇跡が、5節と12節の、教会の人たちの祈りに挟まれて起っているということです。つまり、教会で熱心な祈りがささげられたからこそ、ペトロの解放が起こったということを、使徒言行録の著者ルカは5節と12節の教会の祈りで、ペトロの解放の奇跡を挟み込んで強調しているのです。でも、天使によるペトロの解放は、教会の祈りの力で実現したのではないのです。天使によるペトロの解放は、神が実現したのです。率直に言えば、教会の熱心な祈りが、神を動かして、ペトロの解放を起こしたのではないのです。祈りは、神を自分たちの目的のために動かす手段ではないのです。神は人間の祈りで、何かをさせられる御方ではありません。神は、全く御自分の自由な意思で、御自分が必要と思われることを、御自分が必要だと思われるやり方で、なされる御方なのです。それでもペトロの解放が、教会の人たちの祈りの中で行われたことには、意味があります。1つ目の意味としては、神の自由な御心によって行なわれる御業は、私たちの祈りによって、つまり、私たちが神の前に立って、心を神に向けて、神に語りかけて、神御自身の言葉を聞こうとする私たちと神との対話によって、神の自由な意思から、私たちに施す御業に与ることが出来るようになるからです。そして、2つ目の意味は、神は私たちの祈りによってかり出される御方ではありませんが、私たちが神に願い求めることを待っておられて、私たちの祈りを喜んで下さる御方だからです。神は私たちが、神に色んなことを願い出ることを待っておられるのと共に、喜んでおられるのです。神は、御自分の自由な意思で、祈りに応えたいと思っておられる御方だからこそ、私たちが祈ったその時に、神が思っている、私たちに本当に必要なものを与えて下さるのです。20節以下には、ヘロデ・アグリッパⅠ世が、「蛆に食い荒らされて」死んだことが記されています。そんなことが起こった理由は、ティルスとシドンの住民たちが、彼の演説に対して「神の声だ。人間の声ではない」そう叫んだ時に、それを拒まなかったからです。ペトロの解放も、ヘロデを打ち倒したのも、主の天使です。つまり神は、祈っている人たちに対しては、救いの御業を与えて、祈ることなく、自分を主として生きている者には、裁きの御業を与えるように働かれる御方であるということです。24節は、それらのことを受けて、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」と言っているのです。つまり、祈り続けるという姿勢を持ち続けることこそ、その人の中に、神の言葉がますます栄えて、広がっていって、この世のどのようなことに見舞われたとしても、決して神に滅ぼされない確信を持った歩みが、与えられていくようになる秘訣であるということです。