使徒言行録11章19節―30節(新共同訳p.235 口語訳p.200)
アンティオキア教会は、異邦人を中心とて出来た最初の教会です。実はアンティオキア教会で、世界で初めて主イエスの救いを信じる者たちが「キリスト者」そう呼ばれるようになったのです。それはアンティオキアの町の人たちが、主イエスの救いを信じて、教会に連なった人たちのことをそのように呼んだあだ名です。実は、「キリスト者」という言葉を、もっと嫌な感じで訳せば、「キリストの輩、」そういう意味になります。何故そう呼ばれるようになったのでしょうか。それは彼らが、機会があるごとに、主イエスの救いを語っていたからです。あまりにも、キリスト、キリストと言うが故に、「口を開けばキリストと言う連中」そういう意味で「キリストの輩」そのように呼ばれるようになったのです。そういう観点から言えば、私たちは本当にキリスト者でしょうか。「キリストの輩」、それが意味していることは、そう町の人たちに呼ばれるようになるぐらい、アンティオキア教会の人たちが、力強い伝道を、活発にしていたということです。そんな彼らの伝道は単純でした。「主イエスの十字架・復活・昇天の救い」を宣べ伝えていただけだったのです。彼らは町のみんなから、「おまえはキリストの輩だ」そう言われるまで語り続けていたのです。そんな中で、彼らはそう呼ばれることを、喜びをもって受け止めていたのです。「そうだ、私はキリストの輩だ。こんな私のために主イエスは十字架にかかって死んで下さり、復活して、神と神を信じる人たちと、永遠に生きることの出来る新しい命を与えて下さった。それだけではなくて、神の言葉に生き続けることが出来るように、聖霊も与えて下さった。私はその主イエスの救いの恵みを信じて、主イエスのみ名を呼びつづけて生きている。キリスト者と呼ばれることはなんと誉であろう。」そう思って、信仰者たちも、自らのことを「キリスト者」そう呼ぶようになったのです。キリスト者として生きるとは、倫理的道徳を大切にして生きることではありません。そうではなくて、世の人たちが、「あれはキリストの輩だ。朝から夜まで、キリスト、キリストと言いやがる。」そう言われる程、主イエスにしっかりと留まって生きることなのです。そこに、私たちの本当の喜びと、本当の慰めがあります。何か良い事が自分に与えられる以上に、主イエスが共にいて下さること。そのことこそ、キリスト者の本当の喜びであり、本当の慰めなのです。