ヨハネによる福音書6章22―40節 (新共同訳p.175 口語訳p.145)
1.「『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。・・いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』」
神の子たちが思う幸いも、目に映るもので量ってしまいます。彼らがイエスの名をほめたたえるのは、腹が一杯になったからです。不足のままに置かれたら、誰一人もついて来なかったでしょう。それゆえ、イスラエルを生かされたのは、神の選びであって、その憐みが荒野での日々のマナ、五千人の給食です。
2.「『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。・・神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』」
神の目に正しい人(義認)はいません。世のすべてが罪人(的外れ)なのです。荒野のイスラエルもイエスを囲む群衆も同じ自己中心に生きています。救いは私たちの外(天)から来る(ルター)。十字架に血潮を流された御子を信じることによって、救われます。神のパンをいただくことは、御国に生きる聖徒の証しです。
3.「『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。・・わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」
地上には戦争や災害や差別により、飢え渇く人々が絶えません。イエスの宣言に、肉の満たしを求めるなら、空しく響くでしょう。命のパンとは心を満たす(愛、喜び、平和)御霊の糧なのです。それは終わりの日を待ち望む復活の喜びに満ち溢れています、Ⅰペトロ1:8-9。主は私たち自身も隣人を生かすパンとして仕えることを期待されます、Ⅰコリント6:19-20。
