ヨハネによる福音書4章7―26節 ヘブライ人への手紙10章19―25節(新共同訳p.169,413 口語訳p.140,353)
1.「『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。・・その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。』」
ヤコブの井戸の水は飲んでも渇きます。日毎に汲み出し続けなければなりません。一方、イエスが与える水は霊による注ぎであって、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が溢れます。その恵みはキリストの似姿となる御霊の実を結ばせます。
2.「『あなたがたが、この山でもエルサレムでもないない所で、父を礼拝する時が来る。・・今がその時である。・・神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』」
私たちの礼拝が聖霊に導かれ、真理(御心に適うもの)として守られているならば、父なる神の御顔を仰ぎ、御声の響きを喜びと感謝をもって聞くでしょう。礼拝は建物(サマリアの神殿、エルサレム神殿)によって守られるよりも、むしろ祈りが重ねられた神聖な場所、主の臨在と共にある霊的な集いにあります。この礼拝を霊と真理に適うよう、打ち砕かれ霊と打ち砕かれ悔いた心をもって守りましょう、詩51:19。
3.「『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。』・・『それは、あなたと話しているこのわたしである。』」
イエスは神の自己宣言「わたしである」と言います。今ここで出会ってくださる御子は永遠の救い主であり命に至る水です。私たちの生活が飢えと渇きの焼きつく地と感じていても、キリスト・イエスは湧き出る命の泉であり、「あなたを潤された園、水の涸れない泉」としてくださいます、イザヤ58:11。