3月24日「私たちを救うために」

ヨハネ福音書19章1-16節a(新共同訳p.206、口語訳p.176)

主イエスに十字架の死刑の判決が下された裁判にはピラトの、またユダヤ人たちの弱さと罪が渦巻き、彼らが陥っている恐れと悲惨さが描き出されています。しかしそれらは私たち自身の現実でもあります。主の十字架の死はピラトとユダヤ人の姿に現れている私たち自身の弱さと罪、恐れと悲惨とがもたらしたものなのです。しかしこの主の十字架の死によって私たちの救いが実現しました。主は私たちのための過越の小羊として、十字架にかかって死なれました。主イエスの十字架の死において「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛による救いが実現したのです。神の独り子である主イエスが人間となってこの世を生き、ピラトの、ユダヤ人の、そして私たち全ての者の罪をご自分の身に背負って十字架の死へと歩まれたことによって、神は私たちの罪を赦して、神と共に生きる新しい命を与えて下さったのです。ヨハネ福音書は私たちにこの十字架の主イエス・キリストを証ししているのです。主イエスにこそ、私たちの罪と弱さとそれによる恐れと悲惨さの全てを背負って赦しを与え、救い、新しく生かして下さる神の愛があるのです。だから十字架の主イエスを見なさいと語るのが「この人を見よ」という言葉です。それはピラトがユダヤ人たちに、鞭打たれてボロボロになった主イエスのお姿を指し示した言葉でしたが、ヨハネ福音書はその言葉によって私たちにも十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスだけを見なさいと語るのです。自分の弱さと罪に縛られ、恐れと悲惨さに捕えられている私たちですが、「この人」、主イエスを見つめることによって、独り子を与えて下さった神の愛の下へと招かれるのです。

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