ヨハネによる福音書9章1-12節、24-41節(新共同訳p.184 口語訳p.153)
1.「『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」
窓際のトットちゃんは、トモエ学園の小林宗作先生に出会って、本人の性格や特性が自由に羽ばたくよう褒め続けてくれたことで、世界平和のために活躍する人に育っていきました。
弟子たちは生まれつきの盲人の苦難を問いました。イエスは本人でも祖先の罪でもなく、今日も働いておられる神の業が現れるためであると言われます。生まれ持っての苦難や人生の災難は、キリストの御手に委ねられるならば、そこから大きな光を放つのです。
2.「『目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。・・あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』」
神の御業は不思議です。彼はまず見えるという救いが与えられて、「救われたのはこのわたしです」と自己証言します。通常、救いは信仰告白があって、救いの御業がなされますが、それは神の自由意志であって、今は見えると神の恵みを告白できることは幸いです。
3.「『あなたはもうその人を見ている。・・主よ、信じます。・・見えるとあなたたちは言っている。だから、罪は残る。』」
自分は見える(イエスを裁くことが出来る)と言う敵対者は、イエスが隠されたメシアだと理解できないので、いつまでも裁きのもとに留まります。一方、「もうその人を見ている」との招きは、罪を悔い改め砕かれた心が救い主を見るのであって、既に永遠の命に生かされています。